12Dec
ケイです。
クリスマスが近い12月、阪子さんがクリスマスについての記事をたくさんあげてらっしゃったので、僕も便乗します笑。
実は、僕は誕生日がクリスマスです笑。なので、人よりもクリスマスとその主人公であるイエス=キリストを近く感じてきたと勝手に自負しています笑。
しかし他の人と同じように、大学で聖書に出会うまでは、イエス=キリストについては漠然としか知りませんでした。
大学2回生の時に摂理の人に会って、聖書を学ぶようになってから、実際のイエス=キリストの生について知りましたが、最初は隣人愛についての話も特別なようには思いませんでした。当たり前のように感じましたし、それくらい、今の時代はイエス=キリストが伝えた愛の観がベースになっているのではないかと思いました。
なので、イエス=キリストは愛の人だということを全体的には理解しながらも、その「愛」とは何なのか、自分でもよく分かりませんでした。
しかし、摂理の先生である鄭明析先生は、ある時、その簡単そうで難しい、愛についての話を聖書を通して本質的に解いて下さいました。
聖書にザアカイという人が出てきます。
当時、他の人々からは忌み嫌われていた取税人という立場であったザアカイのところにイエス様が行って共にするという話です。
「さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。 ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。 彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。 そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。 人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。 ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。 イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。」
ルカによる福音書 19:1-10 JA1955
この話を通して、鄭明析先生はこのように話されました。
「イエス様は救いをなさるにも病人を癒されるにも、私たちと違ってなさった。
私たちはミョンドンや地下道で座っている方々にコイン一つ気の毒に思って投げてやって、大きな善行をしたかのように自ら心に慰められる。主はそんな善行を願ったのではなく、相手のひもじい心情を分かって自分の身のように愛する心を持って分かち合うことを願われた。主は病気にかかった人をお癒しになっても、治ろうとするその人の立場でやきもきする心で癒して下さった。イエス様の当時に人間扱いされていなかった取税人のザアカイの家で食事を一緒になさったのは、単純にごはんだけ食べたのではない。取税人たちとごはんを食べることによってイエス様はその当時主流を成していたユダヤ人たちにとって非難の対象になると分かっていながらも、彼らと席を共にして一緒に食事をなさることによって、ユダヤ人たちと全く同じ人格体だということを認めて接したのだ。
このように愛は犠牲を伴うものだ。イエス様の愛する心が彼らに伝わって、だから彼らは感動して惜しみなく分かち合ったのだ。私が分かち合おうと言ったのは、単純に気の毒に思って分け与えようというのではなく、自分の兄弟を愛する主の心情を持って分かち合おうということだ。私が兄弟を愛して哀れに思って愛する心が相手に伝わってこそ本当の分かち合いになる。」
この話を聞いて僕は、「分かち合う」ということへの認識が変わりました。
分かち合うというのは、ただ、自分が持っているものをあげる、そういうことだけを言うのではないんだな。
その心がどうなのかがもっと重要なんだな。
そして、この「分かち合い」こそ正に愛の本質のひとつじゃないか。
そういうことを感じたのでした。
そして、ザアカイの話は僕も何度も聖書で読む中で知ってはいましたが、その中でイエス様がどのような心でいらっしゃったのか、そういうことを深く考えず、ただ何となく、ああ、やはりどんな人のことも顧みられる方なんだなぁとだけ思っていたので、このようにザアカイの話を解いて下さる先生がどうしてそのようにできるのか、不思議でした。
ある時は、自分の少ない所持金を道端の物乞いをしている人に全てあげて、自分は何十キロもある道を歩いて帰られ、
またある時は、通りすがりの家にいた、精神病にかかった人が正気を取り戻すまで数日間祈るためにその家に通われ、
またある時は、気がおかしくなってしまった人を自分の家でお風呂にも入れて洗ってあげ、寝食を共になさったりもした、鄭明析先生。
摂理の先生がそのような生き方をされてきたというのを追って知りながら、
聖書で書かれている話を、ただ昔の聖人がなさった逸話として終わらせず、自分自身も同じ様に生きようと努力してきたからこそ、この様に繊細に解くことができるんだなぁと悟ったのでした。
愛が何か。
誰でも考えたことがあるテーマでもあり、答えは様々にあると思いますが、ただ言葉でだけ答えを持っていないで、自分自身の生き方で答えられる様になりたいものです。
さぁ、今年もクリスマスを前に、何か「分かち合う」ものを準備しよーっと。
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