4Dec
突然ですが
神様はいると思いますか?
神様は目に見えないし
神様がいるかいないか
私も証明する証拠みたいのは持ってないです。
これは水掛け論になるから、
なかなか難しい話題ですね。
では、いるかいないかは別として
神様の愛ってどんな愛だと思いますか?
イエス・キリストが命をかけて伝えていた神様の愛って
どんな愛だったんでしょうか。
イエス・キリストは
神様のことを「父」と呼びました。
イエス・キリストが現れる前まで
ユダヤの人たちは
自分達を「神の下僕(しもべ)」
と呼んでたのに
イエス・キリストは神を
「父」と呼びました。
これは、当時のユダヤ教の中で大騒ぎになりました。
ユダヤの地を揺るがすような
大きな問題です。
当時、TVとかネットなどはなかったから
人々の噂を通して
各地に広まる大問題になりました。
そして、イエス・キリストの教えは
ユダヤ教の根本を揺るがすような、
大きな宗教問題に発展しました。
「イエスとは一体何者なのか!?
私たちは神の下僕なのに
神のことを父と呼ぶのか?
一体どんな権威があって、
田舎の青年が
神を冒涜するようなことを言えるのか」と
当時のユダヤ教の律法学者たちが
あやしんでいたようです。
「得体の知れないあの男
いつか裁判にかけて
追放しないといけない!
いや、追放どころか
生かしておいてはいけない!」
ということになり、
ずーっと、イエス・
危険人物としてマークしていました。
そして、
訴えられそうなネタがないか
虎視眈々と機会を伺い
今がチャンス
(キリストの弟子のユダの裏切り)
というときに
彼を宗教裁判にかけ
拷問した挙句に
十字架にかけて処刑してしまいました。
これだけ聞くとかなりショッキングな内容です。
これらの場面は
新約聖書に記録されています。
ところで、
本題に戻ります。
イエス・キリストが命をかけて伝えた
神の愛とはどんな愛だったのでしょうか。
一言で言うと
「無償の愛」です。
じゃあ、無償の愛って何でしょうか。
相手に条件を求めない
無条件の愛のことです。
その人の存在そのものを
命の価値そのものを
まるごと愛する愛
その人がその人であることを
価値とする愛なので
生まれとか性別とか
職業とか、病気や障害のあるなしとか
そういうものとは関係なく
その人そのものを愛する愛です。
だから、イエス・キリストは
当時は忌み嫌われていた職業だった
取税人(税金取り立てする人)や
姦淫をしたことで
石で撃ち殺されそうになってい女性にも
分け隔てなく接していました。
聖なる日として
労働してはいけないとされていた安息日にも
イエス・キリストのもとに助けを求めて来た
病人たちを哀れみ
癒していました。
そのため、
安息日の教えを破って労働したとして
律法学者達から非難されました。
こんな感じで
イエス・キリストの行動は
当時の社会通念を覆すものだったので
「何をやってるんだ!」と
当時のユダヤ宗教界のお偉方から
大きな怒りを買っていました。
人間はみな平等であり
みな、生きる価値がある
人間はどんな人にも
基本的人権がある
という考えは
イエス・キリストが伝えたかった
神様の無償の愛
を土台としているものです。
神様はそういう愛の方だと伝えるために
多くの人達を癒し
多くの人達の罪を赦し
あなたを罪に定めないから
これからはあなたも罪を犯さないように
と、優しく語りかけてくださっていました。
平和の愛
寛容な愛
赦しの愛
これらは
イエス・キリストが伝えたかった
神様の愛からくるものです。
基本的人権は
私たちが生きていく上で基礎の基礎
ほんとに大切な権利です。
神様を信じない人達も
この考えは聞いたことありますよね。
この考えは私たちの身近にあります。
そのように、神様は私たちの身近に
私たちを愛で見守ってくださる存在です。
そのイエス・キリストのことを
摂理の鄭明析牧師も伝えて来られました。
私はイエス・キリストについて
神様について
鄭明析牧師からたくさん教わって
神様に対するイメージが変わり
神様の大きくて深い愛を
感じられるようになりました。
神様を信じるか信じないかは
一人一人の自由です。
でも、人生は一度きり。
神様の深い愛を知って
自分の心をその大きな愛で満たし
心の底から
安心と幸せを感じる生活を掴んで生きることは
決して私たちの損にならないと思います。
参考聖句
マルコによる福音書2章16、17節
パリサイ派の律法学者たちは、
イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、
弟子たちに言った、
「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、
「丈夫な人には医者はいらない。
いるのは病人である。
わたしがきたのは、
義人を招くためではなく、
罪人を招くためである」。
マルコによる福音書3章1~7節
イエスがまた会堂にはいられると、
そこに片手のなえた人がいた。
人々はイエスを訴えようと思って、
安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。
すると、イエスは片手のなえたその人に、
「立って、中へ出てきなさい」と言い、
人々にむかって、
「安息日に善を行うのと悪を行うのと、
命を救うのと殺すのと、
どちらがよいか」と言われた。
彼らは黙っていた。
イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、
その心のかたくななのを嘆いて、
その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。
そこで手を伸ばすと、
その手は元どおりになった。
パリサイ人たちは出て行って、
すぐにヘロデ党の者たちと、
なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
ヨハネによる福音書8章3節~11節
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、
姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、
中に立たせた上、イエスに言った、
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、
こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、
あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、
イエスをためして、
訴える口実を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、
指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、
イエスは身を起して彼らに言われた、
「あなたがたの中で罪のない者が、
まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、
地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、
ひとりびとり出て行き、
ついに、イエスだけになり、
女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、
「女よ、みんなはどこにいるか。
あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。
イエスは言われた、
「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。
今後はもう罪を犯さないように」。
コリント人への第一の手紙13章4節~13節
愛は寛容であり、愛は情深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、
不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。
しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、
預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼な子であった時には、
幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、
また、幼な子らしく考えていた。
しかし、おとなとなった今は、
幼な子らしいことを捨ててしまった。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。
しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。
わたしの知るところは、
今は一部分にすぎない。
しかしその時には、
わたしが完全に知られているように、
完全に知るであろう。
このように、いつまでも存続するものは、
信仰と希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは、
愛である。
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コメント
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すごくわかりやすくて
聞きやすい~~
こどもの頃 若い頃に
こんな風に 神様の愛を
教えてもらったら
神様のこと もっと素直に
信じることできるだろなぁ^^
シロさん 返信遅すぎてほんとにすみません。
コメント嬉しいです!
私もできるなら子供の頃からこれを知りたかったです~
それでも今、こうして教えてもらえたことに感謝します!